Masuk御影家へ帰ってきた翌日。 軍務を終えた朔は、夕刻の庁舎を出た。 空にはまだ明るさが残り、西へ傾いた陽が煉瓦造りの建物を赤く染めている。 迎えの自動車へ乗り込む。 窓の外を流れていく帝都の街並みを眺めながら、朔は無意識に右手を握った。 旅先で、滝江の家から出てきた後の。 あの時の麗香の重みを、まだ腕に覚えていた。 ――香は、しなかった。 以前の自分なら、それを意識したはずだった。 麗香は自分の番ではない。 探している女ではない、と。 だが、あの時はそんなことを考えもしなかった。 麗香が自分を頼った。 そして自分は、その麗香を抱き寄せたいと思った。 その「それだけ」が、朔にはひどく大切なことのように思えた。 父と母の間には、誰より強い契りの香と、番という絆があった。 それでも母は、幸せではなかった。 ならば、香がなくとも、自らの意思で誰かへ手を伸ばすことの方が、よほど――。「……」 そこまで考えて、朔は眉間を押さえた。 本当はもう、答えなど出かかっているのかもしれなかった。
その夜。 旅の疲れもあって、麗香はいつもより早く床へ入るつもりでいた。 入浴を済ませ、寝間着へ着替え、鏡台の前で髪を梳いていると。 こん、こん。 扉を叩く音がした。「はい」「麗香姉様。まだ起きていらっしゃいます?」「小夜さん?」 扉を開ける。 そこには、すでに寝間着へ着替えた小夜が立っていた。 長い髪も就寝用にゆるくまとめられている。「今夜、こちらで一緒に休んでもよろしいですか?」「……私と?」「はい」 思いもよらない申し出だった。 けれど、小夜はもう麗香の返事など決まっていると思っているらしく、嬉しそうに微笑んでいる。「駄目です?」「いいえ。駄目ではございませんけれど」「よかった」 小夜が部屋へ入ってくる。 麗香は扉を閉めながら尋ねた。「でも、どうして急に?」「だって」 小夜は寝台へ目をやった。「兄様とは、旅先でご一緒にお休みになったのでしょう?」「――なっておりません!」 思わず大きな声が出た。 小夜が目を丸くする。「まあ」「まあ、ではございません。お部屋は別々でした!」「そうなのですか?」「当然です!」「ご夫婦ですのに?」「朔様は、そのようなことを勝手になさる方ではございません!」 言い切ってから、麗香は、はたと気づいた。 小夜がにこにことこちらを見ている。「……何です?」「麗香姉様は、本当に兄様のことをよく分かっていらっしゃるのだなと思いまして」「それは……」 麗香は言葉に詰まった。「ともかく、別々のお部屋でした」「では」 小夜は満足そうに頷いた。「麗香姉様と一緒
帝都へ戻る汽車が停車場へ滑り込んだ時には、すでに午後の日も傾き始めていた。 扉が開く。 途端に、懐かしい喧騒が押し寄せてきた。 荷を運ぶ赤帽の声。 行き交う人々の靴音。 汽車が吐き出す白い蒸気に、石炭の匂い。 つい数日前にここから旅立ったばかりだというのに、麗香には随分久しぶりのように思えた。「では、僕はここで」 停車場を出たところで、清雅が足を止めた。「御影家へは寄られないのですか?」「ああ。僕まで帰宅についていったら、小夜ちゃんに『清雅様はご自分のお家がございませんの?』とでも言われそうだからね」「言いそうだな」「否定してくれないのかい?」 朔は答えなかった。 麗香は思わず笑う。「清雅様。この度は、本当にありがとうございました」「礼にはまだ早いよ。分かったことより、分からないことの方が多いからね」 清雅の言うとおりだった。 母が少女の頃、どのように笑っていたのか。 香が好きだったこと。 少しばかりお転婆だったこと。 そして、自分と同じように、人には分からない香を持っていたらしいこと。 知ることのできたものは多い。 けれど、その生まれも、本当の名も、なぜ桐生家へ嫁ぐことになったのかも、まだ分からないままだ。「調べておくよ。何か分かったら知らせる」「頼む」「では麗香さん。また近いうちに」「はい。お気をつけて」 清雅が人混みの向こうへ消えていく。 その姿を見送ってから、麗香は隣を見た。「俺たちも帰るぞ」「はい」 帰る――というその言葉が、不思議なくらい自然に胸へ落ちた。◇ 御影家の自動車が門をくぐる。 見慣れた庭。 見慣れた玄関。 初夏の日を浴びた木々の緑も、出発した時と何も変わっていない。 自動車が止ま
滝江の家を出ると、初夏の日差しが眩しかった。 麗香は目を細める。「麗香」 探すより先に、声がした。 顔を上げると、少し離れた木陰に、朔が立っていた。 その隣には清雅もいる。「……朔様」 名を呼んだ途端、胸の奥で張りつめていたものが、ふっと緩んだ。 朔がこちらへ歩いてくる。「終わったか」「はい」「そうか」 それだけだった。 何を聞いたかも、何が分かったかも。 朔は、何一つ尋ねなかった。 きっと、麗香が自分から話すまで待ってくれるのだ。 そう思ったら――。「朔様」「何だ」 麗香は一歩、彼へ近づいた。「少しだけ……」 そこまで言って、言葉が止まる。 どうしてほしいのか、自分でも、うまく言えなかった。 ただ。今は、この人の近くにいたい。 気づけば、麗香は朔の胸へ額を預けていた。「……麗香?」「申し訳ございません」「なぜ謝る」「分かりません……」 朔の身体が僅かに強張っている。 けれど、麗香を押し返しはしなかった。「……肩を抱いてもいいか」 低い声が、頭の上から落ちてきた。 麗香は目を閉じた。「……はい」 今度は、迷わなかった。 背へ腕が回る。 ゆっくりと、壊れ物でも扱うように。 麗香も、朔の着物をそっと掴んだ。 温かい。「……少し、このままで」「ああ」 朔の腕に、ほんの少しだけ力が籠もった。 麗香は目を閉じた。 母が何を望んでいたのかは、まだ分からない。 けれど、母が自分を愛してくれたことだけは分かる。 そして今、自分が何を望んでいるのかも。 少なくとも、この瞬間だけは分かっていた。「……そろそろ、僕の存在を思い出してもらってもいいかな」「――っ」 麗香は勢いよく朔から離れた。 少し離れたところで、清雅が困ったように笑っている。「すまないね。できればもう少し空気を読んでいたかったんだけど」「清雅」「はいはい。睨まないでくれ」 麗香は顔が熱くなるのを感じた。「も、申し訳ございません、清雅様……!」「麗香さんが謝ることじゃないよ。むしろ僕が邪魔をした側だから。――それで」 清雅の表情が少しだけ真面目になる。「聞きたいことは聞けたかい?」「……はい」 麗香は頷いた。「すべてではございません。でも、母がどのような娘だった
翌朝。 約束どおり、麗香は朔と川沿いを歩いた。 山あいの朝は涼しく、初夏の日差しもまだ柔らかい。 川面に朝の光がきらきらと揺れ、道の脇には名も知らぬ白い花が咲いていた。「綺麗ですね」「ああ」 それだけの会話だった。 けれど麗香には、それで十分だった。 隣を歩く朔の足音を聞いている間だけは、不思議とこの先のことではなく、今この瞬間の景色を見ることができた。◇ 滝江の家は、宿から自動車でしばらく走った、山裾の集落にあった。 古い日本家屋だった。 門の脇には青々とした柿の木が一本。 華族の邸宅とは比べるべくもない小さな家だが、庭も玄関もよく手入れされている。「ここだよ」 清雅が言った。 麗香は小さく息を吸った。 隣の朔を見上げる。「……参ります」「ああ」 朔は、それ以上何も言わなかった。 玄関が開いた。「御影様でいらっしゃいますか」 出てきたのは、五十ほどの女だった。「母がお待ちしております。どうぞ」 麗香が一歩進む。 朔と清雅は動かない。 麗香は一度だけ振り返った。 朔と目が合う。「行ってこい」「……はい」 麗香は意を決し、門へと足を踏み入れた。◇ 通された座敷には、一人の老女が座っていた。 髪には白いものが多く混じっている。 細い身体を地味な着物で包み、背筋を伸ばして座っていた。「母です」 案内してくれた女が告げる。「お客様がお見えですよ」 老女――滝江が顔を上げた。 麗香を見る。「……」 その目が、大きく見開かれた。「…&hell
低い声が、遠くから聞こえた。「麗香。着くぞ」「……はい」 返事をしてから、麗香はゆっくりと目を開いた。 最初に見えたのは、見慣れない布地だった。 濃い色の着物。 その向こうに、窓から差し込む初夏の光。「……」 そして。 自分の頬が、朔の肩へ乗っている。「――っ」 麗香は勢いよく身体を起こした。「も、申し訳ございません!」「別に構わん」「起こしてくださればよろしかったのに……」「よく寝ていたからな」 朔は何でもないことのように答える。 麗香は熱くなった頬を隠すように窓へ顔を向けた。 いつの間にか、景色はすっかり変わっている。 広々とした田畑は少なくなり、窓の向こうには深い緑をまとった山々が迫っていた。汽車は山肌を縫うように進み、時折、木立の隙間から川の流れが銀色に光って見える。「よく眠れたかい?」 突然、通路側から声がした。 振り返ると、清雅が実に楽しそうな顔をしていた。「……はい」「それはよかった」 やがて汽笛が長く鳴った。 速度が落ちていく。 目的地が近いのだ。◇ 駅を降りると、空気の匂いが違った。「……まあ」 麗香は思わず声を漏らした。 山から降りてくる風に、湿った土と青葉の香りが混じっている。 帝都にも庭園や木々はあるが、ここでは緑の方が人の暮らしを包んでいるようだった。 小さな駅舎の向こうには山並みが連なり、その麓に瓦屋根の家々が並んでいる。「お荷物をお運び致します」 同行してきた女中頭の志乃と若い家人が、すでに荷物をまとめている。 先方を怯えさせぬよう、供は必要最低限にしていた